「記憶」と50回目の春

今年は暖冬と言われ、暖かい2月を過ごしたら、3月は気温が上がらず桜の開花も遅れ、久しぶりに4月に桜が咲き、おかげで長女の大学の入学式には桜が満開でした!皆さんはどのような春を迎えていらっしゃいますか?

春といえば、入学や就職など様々なスタートを迎える季節。僕も今年で50歳。これまでも色んな春を過ごしたなぁと、たくさんの思い出が思い起こされます。

ところで、思い出って「記憶」ですよね。「記憶」って不思議なもので、その時の匂いや肌感など体の「記憶」も一緒に蘇ってくるものです。頭の「記憶」は「忘れる」ということが望む望まざる関係なく起きてしまいます。でもそれは「消失」しているわけではなく、「思い出せない」だけだそうで、決して無くならない。それは体の「記憶」も一緒で、「経験」として体に蓄積されていくもの。だから、我々の体には「経験」したすべての「記憶」が残っていきます。

つまり、我々の体は「経験」で出来上がっていくものとも言えるのだそうです。しかも、個人的な「経験」のみならず、生命体として受け継がれてきたすべての「経験」という「記憶」が「遺伝子」に蓄積されていると言われています。

たとえば、高い所が怖かったり、モフモフの物が気持ちよかったり、苦いものが美味しくなく感じたり、腐った匂いが気持ち悪かったりするのも全て、僕たちの大先輩たちが「経験」してきて受け継がれてきた「記憶」が働いていると言えるのです。もちろん、個人的な「経験」で好き嫌いが作られることもありますが、根本的なところは全て、ヒトという種、もっとさかのぼれば生命体の「記憶」と言えるのだそうです。

しかしながら、生活様式や習慣、更には価値観などの変化によって奥の奥にしまい込まれてしまうものもあります。例えば「江戸まで歩いていく」なんてことは、たった150年くらい前なのにほぼ共感できないですよね。GPSもないのに手漕ぎの船で大海原に出て他の島や大陸まで行くなんてことはもっと共感できない。でも、間違いなく我々の先輩がやってきたこと。逆をいえば四角いすべすべしたものを指でなぞって遠く離れた人と話したり、買い物をしたりなんてことは数十年前の先輩たちには全くもって共感できないでしょう。

今の時代は科学技術の発達により、過去の先輩たちが経験したことが無いほどの速さで生活様式や習慣が変わっていく時代。ヒトは自分の体のほうが追いつかないような速度で、身の回りの環境を変えていってしまっていると言えます。でもきっと体は「経験」することですぐに順応し、それを「記憶し」次の世代に受け継いでいきます。江戸まで歩いていったり、知らない島まで船を漕いでいくような機能は退化し、テクノロジーによって作られた機械やシステムに適応するような変化を続けながら、我々ヒトはどんな「経験」をし、どんな「記憶」を繋いで行くのでしょうか?

遅れて咲いた桜の中、僕の手元から巣立っていく長女の背中を見ながら、未知の世界へ踏み出し、どんな「経験」をし、どんな「思い出」という「記憶」をその小さな体(きっと僕の「遺伝子」のせい)に蓄積していくのだろうか、せめて後々には「いい思い出」になって欲しいと願う、50回目の春でした。

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