毎週、出張整体に伺っている芸北地区はスキー場も3つある豪雪地帯なのですが、もうすっかり雪はなくなってしまいました。地元の方に聞くと、例年は田んぼや畑の雪がなくなるのはだいたい3月の下旬頃なので、今年は1ヶ月ほど早いみたいです。今年の春は少しせっかちなのかもしれません。

そんな春なのに、アメリカとイスラエルはやってしまいました。イランへの空爆。そして、最高指導者のハメネイ師の殺害。たとえどんな理由があろうとも、全く関係のない市民にまで被害が及ぶような攻撃は決して許されないことだと思います。

しかし、なぜこうも人間は争い、殺戮をするのだろうか?
何千年たっても、どれだけ科学が発達しても、全く変わらない。
人間という生き物は本当は全く学習能力がないのかと考えてしまう。
科学が発達すればするほど、武器も発達し、より過激な戦いをする。
我々ホモ・サピエンスがネアンデルタール人と違ったのは想像力だと聞いたことがある。しかしながら、その一つの言動が、その一つの行為がその後どのような影響を及ぼすのか、どれほどの血と涙が流れるのか、どれほどの命が失われるのか、そこの想像力は発達しないのだろうか?
無益な争いを続け、地球を汚し続ける。我々、ホモ・サピエンスはなんのために存在しているのか?
アメリカファースト。都民ファースト。日本人ファースト。そんな言葉を発する人間を僕は信頼できない。
自分を守る。家族を守る。仲間を、国民を守る。それは分かる。でも、だからといってそれ以外の人々や、自然界がどうにでもなっても良いとは絶対に言えない。結局は巡り巡って、自分の首を絞めることになる。
そんなこと、誰が考えても自明のことだ。
僕は「バランスからだ塾」という教室をやっている。
だから、常々「バランス」とは何か?と考えている。
分子生物学者の福岡伸一さんは「動的平衡」という言葉でそれを表した。
2,500年前に、釈迦は「諸行無常」と言った。この世の中に不変なものはないという真実に気づいたのだ。
だから、福岡さんは「平衡」ではなく、「動的平衡」と言った。とても、的を得た言葉だと感心する。
僕は最近、古くから使われている「折り合い」という言葉に可能性を感じている。
相対するものが、どちらかが征服するわけでもなく、どちらかが降参するわけでもなく、どちらかを抹消するわけでもなく、どちらかだけが生き残るわけでもなく、「折り合い」をつけるのだ。

別の言葉で言えば「妥協」とも言える。「妥協」はどちらかと言えばネガティブな言葉として捉えられがちだが、お互いが譲れるところで譲り合う、最善の解なのかもしれない。
対人関係でも、人間と自然環境でも、自分の中の気持ちや感情とも「折り合い」をつけることこそが、多様性を唱える現代を生きる人間にとって、科学技術より何より、最も有効な技術なのではないか。
今年の春は少しせっかちにやってきそうだが、世界の為政者よ、どうかそこはせっかちにならずに、時間をかけてでも「折り合い」をつけられるようにやってもらえないだろうか。

