令和7年3月26日、父安田政男は天に旅立ちました。行年90才。(満88歳)
今回の御導師様は斎場の紹介でご縁を頂いた、栃木県矢板市の真言宗波切山龍慧寺さん。
正直なところ、斎場の紹介なので、全くもって期待をしていませんでしたが、お若いのにとても素晴らしいご住職でした!
ご住職の法話で、享年ではなく、行年と記したのは修行をした期間という意味で、数えで記したのはお腹の中の期間も含めてということという説明があり、すごく腹落ちしました。
また、遺影に笑顔を選んだことが素晴らしいと感心されており、なんだかこちらが面映い思いをしました。
その遺影がこちら↓

この写真は服装や角度などは合成加工されていますが、写真が趣味の孫が撮ってくれたスナップ写真で、孫に撮ってもらうからか、父の笑顔がとてもよくて、家族で選びました!
この笑顔でも分かるように、僕のおふざけキャラは間違いなくこの人の血なんだなというくらい、父はよくダジャレや冗談を言っては笑いを取って(るつもりで)、晩年も診察室で「一曲どうだい?」なんて言って担当医の前で歌を歌うことも何度かあったようなんです💦
母は母でそれを止めることもなく、「あーははははっ🤣」って笑って助長していたようで、林家ペーさん、パー子さん夫妻にも負けず劣らずの夫婦でした。

僕がまだ幼く、父が仕事をしていて頃は国家公務員だったこともあり「国家公務員は公僕なんだ。世のため人のために働いくのが責務なんだ」と言うほど、堅い一面もあり、クソ真面目だなぁと思っていた事もあります。

と言いつつ、職場の方々を家に連れて行きては麻雀を2卓作ってやることも何度かあったり(僕が中3の冬には受験前なのにメンバーに入れられたことも😅)。
「お馬の運動会見に行くか?」と言われ、春と秋の福島開催の競馬場へ行くのも通例で、僕も父と鈍行列車に揺られて小旅行するのが楽しみでした。
僕が幼稚園に上がる前くらいから、仕事から帰った父を捕まえては、狭い座敷で柔道の真似ごとをし始めたり、ゴムボールとプラスチックバットでガンガンに打ちまくったり。障子が破れ、照明の笠が壊れても気にせず遊んでくれました。
土曜の夜はトランプでセブンブリッジをしたり、TV番組の「大橋巨泉のクイズダービー」を見ながらチラシの裏に「はらたいらに全部!」とか出場者と同じように点数を書いて遊びました。
そして、日曜は父の実家に行き、祖母の様子を見ては、帰りにパチンコ。その後東北本線の線路脇に車を停めては通過する貨物列車を見るというルーティンでした。
今思えば家に暴れん坊がいると母の家事に差し支えるから、連れて出ていたんだろうと思いますが😅

夏には猪苗代湖で湖水浴、冬は安達太良山でスキー。5年生くらいからはボウリングにもよく連れていってもらい、親子ボウリング大会に出たことも🎳
小1からは町の道場に通って柔道を、小5からはリトルリーグのチームが出来たのですぐに入団させてもらいました。
ある日父が仕事から帰ると、銀紙に包まれた丸いものをポイっと僕に渡してくれて、それが何なのか一瞬分からなかった、僕がそれまでの人生で初めて触れる硬球⚾️でした。
週3回の柔道の稽古も、その後の毎週土日のリトルリーグの練習もほぼ毎回見てくれていました。高校野球の頃は単身赴任をしていたので、なかなか観に来れていませんでしたが、きっとウズウズしていたに違いありません。
(そんなリトルリーグや高校時代の仲間も葬儀に駆けつけてくれたのは僕はもちろん、父も喜んでいた事でしょう!)
稽古や練習が終わった後でも、これといってアドバイスするわけでもなく、そう言えば僕は習い事も進学も就職も父から何か言われた事もなければ、こちらから相談する事もなく、僕が「こうする」と決めた事に反対する事もなく、全て受け入れてくれました。
小6の頃、友達が漫画のように目の周りを黒くして「オヤジに殴られた」とか言っているのを、少し羨ましく思ったりするほど、父は僕を怒ったり、説教したりする事は一度も無かったような気がします。ただ覚えていないだけだとは思いますが、そのくらい何かを教えられたり、強制させられたりすることはなかったように思います。
あんまり何にもいわゆる“オヤジと息子”みたいな事がなくて、物足りなく感じていた時期もありました。
この歳になって、思い返せばそれこそが父の教えだったのかもしれません。
良いも悪いも何も言わず、好きにやらせる。
あとは本人がどう思うか。
そのお陰でこんな息子になってしまいましたが、父を見送り、広島に戻る新幹線の車内でこうして思い返せる時間を過ごせているのも、そのためだったのかもしれません。
トランプ、麻雀、競馬、ボウリング、スキー、柔道、野球と今でも僕が好きなものは全部父譲りだったではないですか!
そして子どもと遊ぶことも。
僕はそれを仕事にしてしまったではないですか!
そう言えば、父の父(僕が生まれる前に他界した勘之助)も近所の子どもとよく遊んでいたようで「陣場山の良寛さん」と言われていたと生前父が言ってました。
もう、これは血統ですな。
そうそう、僕には到底出来ない事が昨年ありました。
それは父が瑞宝双光章を賜ったことです!

公僕だと言いながら、長年(仕事は)真面目に取り組んできた証です!
とは言え、やっぱり湿っぽい葬式にはしなくなかったので、通夜の喪主挨拶で
「通夜は いつやんだい?」
とかましたら、告別式ではそんな父が大好きだった初孫、雄磨(33歳)がお別れの挨拶で、
「じいちゃんの生姜焼きがもう食べられはくなるのは しょうがない」
とかましてきたので、僕も黙っていられないので、通夜に続いて
「他界したのにまだ あったかい」
と、告別式でもしっかりぶっ込んでおきました😁
みんなが涙をこぼしながら笑ってくれてくれるなんて、葬式以外ではなかなかないです🥲
斎場の担当の方も、準備期間から何度も家に足を運んでくれたので、すっかり仲良くなり、告別式の直前には「今日もダジャレ、期待してますよ」って😅
そんな葬式あります?
家族、孫たち、親戚(姪の孫まで!)、ご近所さん、仕事の後輩などなどたくさんの人に見送ってもらい、父はきっと
「そんなにきでくっちゃんだったら
まだいぎだぐねぇーのに
いがねっきゃなんねぐなっちまーばい
まだしんだごどねーがら
どうやっていぐんだが
わがんねー
しがだねがらタクシーでもよぶが
だれがよぶんだい?
わたくしー」
(御真言ではありません😅)
などと言っていることでしょう。
生前の父に関わった全ての皆様、龍慧寺のご住職、須賀川斎場の皆様、遺族を代表し改めまして厚く御礼申し上げます。
最後に
お父さん、お疲れ様でした。そして、本当にありがとうございました。
愚息
政之